2008年05月12日
Mood Indigo

最近誰も記事を書かない、と言うか書くイベントがない・・・
でもblogやってるので書かなければ・・・
と言うことで、全くもって私的な驚き、感動?したことを書きます。
私、西野は音楽が好きで、好きなバンドの一つにLittle Creaturesというバンドがある。
そのメンバーの一人に青柳拓次という人がいます。
その人が某レコードショップでのフリーペーパー「bounce(←フリーペーパーといえど侮れない雑誌)」で「Mood Indigo」っていうコーナーを連載しています。
それの今月号で、面白いことが書いてあったので、一つ紹介。
その内容は、「無」「瞑想」について!!(←別に専門的なものでなく、半ページと、さくっと読める)。
そこで拓次氏が引用していたのが、あるインドの自由人が日記の文章について。
「故意に瞑想することは、瞑想でない。それは起こるべきものであって、コチラから招き入れるものではない。今考えていること、行為していることだけに気をとどめなさい。欲は盲目である。」
つまり何か一つのことに対し集中すること(←つまりこれが欲)は、瞑想すること、無になることに等しいのである。
で、氏が日記を読んで、
「誰しもがそれぞれの欲を持っていて、一点に集中されているのと、分散されているのでは生き方が大きく違う。欲に集中させるほど人生のふり幅が大きくなっていくのではなかろうか?ダイナミックな人生には凝縮した欲がつきまとっているのだ。
ところで、<禁欲>と言われる状態とはどういう状態なのだろうか?ベジタリアンが肉食をしないのも、食肉産業に関連する環境の改善や、自身の健康を強く求めた欲のあらわれであるし、僧侶が節制したり戒律を守ったりして暮らすことも、精神的に上のレヴェルに上がる為であったり、悟りを開いたり無になるという強い目的と、それを渇望する欲によってもたらされた生活と言える。
おいしいものを無節操に求め食べることも、食べ物を制限し選ばれたものを食べることも、全く同じ欲望の質量だと思う。」
と言及していた。
まぁ、この話だけでも個人的には面白いのですが、環境について携わるものとして感じたことを。
「瞑想」はさて置いておき、「無」になること、さらに言えば「禁欲」になることは環境、環境問題についてアクションを起こすときに望まれる姿勢、状態、考え方であると思われる。
でも、上の氏や、インドの自由人の考え方からすると、「無」とはなれるものでなく、何かに執着することで生まれるものであるとなっている。
これが全て正しいわけではないけど(そもそも正しいとは何かってことになるが)、なんか「無」の状態になるには、それに対して逆のアクションを起こしていることになるのかなぁ~っと!!
エゴを捨てるってことは、更なるエゴの追究にある(←大袈裟かな)のか、と考えさせられました。
(↑書いたはいいものの、自分で何を言いたかったのかさっぱり・・・、単に驚きを伝えたいだけであったのかも・・・)
別に環境に対して活動している人や、僧侶の方を揶揄しているわけではないので、悪しからず。
おしまい
Posted by くぼでら at 23:58│Comments(0)│TrackBack(0)
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